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荘子 第一冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1) 文庫 – 1971/10/1
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『荘子』は道家思想の代表的古典として、儒家の論語や孟子などに対立しつつも古代中国思想の重要な一翼をなし、我が国にも多大な影響を与えた。卑小な人間世界から飛び立ち、人為を超越した自然の世界に融けこんで、自由な精神を得ようとする荘子の思想は、まことに魅力的である。一(内篇)、二(外篇)、三(外篇・雑篇)、四(雑篇)。
- 本の長さ268ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1971/10/1
- 寸法10.5 x 1.6 x 14.8 cm
- ISBN-104003320611
- ISBN-13978-4003320617
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1971/10/1)
- 発売日 : 1971/10/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 268ページ
- ISBN-10 : 4003320611
- ISBN-13 : 978-4003320617
- 寸法 : 10.5 x 1.6 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 91,594位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 661位岩波文庫
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2024年3月15日に日本でレビュー済み
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荘子の標準的な翻訳書にあたると思う。解説が少なくあまり意味がわかりづらいところがあるので、これとは別の訳者のものや、解説本などを合わせて読むことをおすすめする。
2024年2月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
資料としては良いと思いますが、文庫本の大きさの中に、原文、書き下し文、注釈、現代語訳がびっしりと書き込まれており、文字が小さくて大変読みにくいです。電子書籍化を希望します。
2016年9月8日に日本でレビュー済み
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特に「斉物論篇」にしぼって諸々の訳書を読んでみたが、誤訳のないものはない。翻訳者たちはいずれも博識家であるが、必ずどこかで躓いている。古代の形而上学者である荘子を理解するために必須の知識を、大なり小なり欠いておられるようだからである。しかしこれは学問の専門化が進んだ現代にあっては仕様のないことである。ゆえに、最も訳文に自己流の解釈を盛り込むことを自重しておられる金谷治訳の岩波文庫版の『荘子』が一番ベターであると私は思った。しかし最低限『荘子』を理解するためには、森三樹三郎訳のものも併せて読むべきかと思われる。
中国の古典についての知識だけでなく、形而上学を中心とした哲学全般や宗教人類学等についての学識が充分でなければ、荘子が実際には何を言いたかったのか分からなくなりかねないし、「斉物論篇」を思想的に一貫した一まとまりの著作であると見なせなくなってしまう恐れもある。
金谷訳をお勧めする私としては、まず斉物論篇の序章における金谷の致命的誤訳を指摘しておかなければならない。この誤解釈のおかげで、比較的優秀な金谷訳の斉物論篇は、残念なことに、思想的に一貫性を欠くものになってしまっているからだ。
子游がいった、「地の簫(ふえ)はつまりもろもろの穴がそれですね、人の簫はつまり竹管がそれですね。どうか天の簫のことをお教え下さい。」子キは答えた、「〔地の簫も人の簫も、〕そもそも吹きかたはさまざまで同じではないが、〔それらは、すべての穴や竹管〕みなそれぞれに自分で音を出しているのだ。すべてそれ自身で音が選ばれている。音を出させる者はいったい何者であろう〔そんな者はありはしない〕。
(金谷治訳『荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫)』 P44,45)
金谷はここで「音を出させる者(万物の主体である真宰)」など存在しないと断言してしまっている。しかしそれでは、その後の
何がそのようなさまざまな状態を起こさせるのかは分からない。真宰--真の主宰者--がいるようでもあるが、その形跡は得られない。作用(はたらき)の結果は確かであるが、そうさせたものの形は見えない。実質はあるが姿形はないのである。〔中略〕
やはり真実の主人が存在するであろう。
(金谷 P49)
という荘子の意見と真逆の主張が直前になされたことになってしまう。これでは読者は混乱してしまう。事実、金谷訳を参考にして荘子を論じた蜂屋邦夫は、上記の箇所について「ここは、じつは文意がなかなか取りがたく(『荘子=超俗の境へ-講談社選書メチエ』 P112)」と露骨に及び腰になっていて、自身の斉物論篇の解説によほど自信がないのか、その章は読み飛ばしてもよいとまで言っている。天籟の箇所を誤解釈してしまうから、読み手はその後の荘子の議論に付いていけなくなるのだ。
また天籟の箇所を、方向性は間違っていないが微妙に誤訳している阿部吉雄も「雲をつかむようで分らない。〔中略〕巻を閉じた後、いつまでも考えさせられる文章である。(阿部吉雄訳『荘子(中国古典新書)』 P77)」と事実上白旗を上げている。しかし
小さい木の茎と大きな柱、癩病患者と美人の西施とを対照して示すと、とても奇怪ないぶかしい対照ではあるが、〔それは現象にとらわれているからのことで、〕真実の道の立場からは〔その区別は消えて〕ひとしく一つのものである。
(金谷 P59,60)
というような「形而上的な真実在である『道(一者)』は絶対無差別」だとする斉物論篇全体を貫いている荘子の力強い主張を鑑みれば文意は明白である。
「実質はあるが姿形はない〔中略〕真実の主人(金谷 P49)」とは「形而上的な(形を持たない)真の実在」を意味している。
【夫吹萬不同、而使其自己也、咸其自取、怒者其誰邪】は、金谷のように音を出させる者など存在しないと解釈するのではなく、【千差万別の音が出てはいるが〔吹かれ方は千差万別であるが〕、その音の区別(差別)は諸々の穴や竹管の形状、つまり穴や竹管の形状に例えられた個別者自身によるものだ。では音を出させるものはいったい何者であろうか?〔差別する者(吹かれ方を決するもの)は当の個別者たち自身であるから、その何者か(非個別的な普遍的実在すなわち一者=道である吹くもの)は差別をしていないのである〕】という風に解釈すべきなのである。そうすれば前後の議論の矛盾は解消され、荘子が一貫して「万物斉同の理」について述べていることが明確になる。
ただ金谷の訳はこうした一部の誤解釈を除けば、できる限り原意から逸脱しないように心掛けられていて、翻訳上の飛躍は特に少ない。例えば、
生涯をあくせくとすごしてそれだけの効果もあらわれず、ぐったりと疲労しきって身を寄せる所も分からない。哀れまないでおれようか。世間でそれを死んではいないと言ったところで、何の役にたとう。〔すでに死んでいるのと同じである。〕その肉体がうつろい衰えて心もそれと一しょに萎んでしまったのである。
(金谷 P51)
と真っ当に翻訳している部分を、池田知久は
身を終えるまでこつこつと勤めながら、ついに成功を見ることもない。ぐったりと働き疲れて、行き着く先も分からない。哀しまないでいられようか。この身体を不死だと主張して、それに真宰を充てる思想家もいるが、何の益もない議論である。この思想家の身体が死ねば、彼の精神も一緒に死に絶えるのだ。
(池田知久訳『荘子 上 全訳注 (講談社学術文庫)』 P128)
という風に、釈迦やウィトゲンシュタイン同様「語り得ぬこと」についてよく自覚している沈着冷静で稀有な思想家である荘子を、死後の生存を断定的に否定する(語り得ないことについて断定的に語る)凡庸な言論者にまで貶めてしまっている。森三樹三郎もほとんど同じ誤訳をしている。さらに池田は、
あれこれの人間の精神にまだ形成されていない、普遍的精神を真宰としてみると、それが行う是非の判断は、例えば、(恵施の有名な)『今日、越(南方の国名)に旅立って昨日着いた。』といった、時空を無視した詭辯となるだろう。ありもしない普遍的精神などを、あると見なしたからだ。
(池田 P128,129)
というように、荘子が原文で一言も述べていない「普遍的精神」なるものを想定して、彼の現代語訳に登場する荘子にこれを否定させている。金谷はこの箇所もまったく普通に(つまり原文に対して忠実に)翻訳している。
心に成見を持たなくても善し悪しの分別が起こるなどというのは、今日南の越の国に旅立って昨日到着したという〔詭弁の〕ようなもので、これはありえないことをあるとすることである。
(金谷 P52)
池田は自身の深い学識に基づいて独自の解釈を施したのであろうが、そのような見解は注釈部分でのみ言及すべきことであり、それを『荘子』の現代語訳として提示するのは明らかにルール違反である。現代の知識人は形而上学を好まない。だが古代の哲学者の多くはそれとは真逆であり、荘子はそのような古代哲学者の中でも最も過激な形而上学者である。荘子は徹底しており、プラトンのように形而上の世界を志向するだけでなく、形而下の世界そのものを否定してさえいる。当該の部分を三人の訳者の現代語訳で見てみよう。
昔の人は、その英智に最高のゆきついた境地があった。そのゆきついたところとはどこか。もともと物などはないと考える〔無の〕立場である。至高であり完全であって、それ以上のことはない。
(金谷 P64)
上古の人には、その知恵が、それぞれに到達するところがあった。その到達したところはとは、どのようなものであったか。
最も高いものは「はじめからいっさいの物は存在しない」とするのであって、これは究極まで至りつき、すべてを尽くしたもので、もはやつけ加えるべき何ものもない。
(森三樹三郎訳『世界の名著 4 老子 荘子 (中公バックス)』 P183)
上古の人は、知がある究境に到達していた。その到達していた境地とは、根源において、物は存在しないと考える境地である。それは究境に達しており、あらん限りを尽くしていて、最早何も追加することのできない、最高ランクの知である。
(池田 P161)
物質は存在しない、つまり、感性界(目に見えて触れることもできるこの現実世界)が本当は存在していないという思想は、仏教では唯識派、ヴェーダンタではシャンカラに至ってはじめて完全な形で提示された非常に大胆で先進的な哲学説であり、荘子の時代(紀元前)にあって形而上学の到達点であるこの思想が現われていることは哲学史的、宗教人類学的に言って普通に驚異的なことなのである。荘子がずっと後の唯識教学やシャンカラのヴェーダーンタ哲学とほぼ同じ意味合いにおいて、この思想を語っていたことは、次の引用箇所をみればかなり明らかであると思われる。
夢を見ているうちは、それが夢であることがわからず、夢のなかで夢占いをすることさえあるほどで、目がさめてはじめて夢であったことに気がつくありさまである。だから真のめざめがあってこそ、はじめてこの人生が大きな夢であることがわかるのだ。〔中略〕
こういっている私も、実はお前といっしょに夢を見ているのだよ。
(森 P197,198)
夢を見ているときには、それが夢であることは分からず、〔中略〕目が覚めてから始めてそれが夢であったことが分かるのである。〔人生も同じことだ。〕本当の目覚めがあってこそ、始めてこの人生が大きな一場の夢であることが分かるのだ。〔中略〕孔丘もお前もみな夢を見ているのだ。そして、わしがお前に夢の話をしているのも、また夢だ。
(金谷 P82,83)
夢を見ている最中には、夢であることに気づかず、時には夢の中でさらに夢占いをすることもある。目が覚めて始めて夢であることが分かるのである。とすれば、いつの日か大いなる目覚めを経験して、始めて今までのが大いなる夢でしかなかったと分かるはずだ。〔中略〕孔丘と君の最前のやり取り、どちらも夢である。私が君に夢だと言うのも、また夢だ。そして、一切を夢なりとするこの言葉は、名づけて摩訶不思議と言う。〔中略〕まず誰にも解釈できない、本当の真理なのだ。
(池田 P201)
荘子は何かの比喩ではなく本気でそう考えていたのであり、ここで彼が言わんとしていた事柄は、プラトンがあの有名な「洞窟の比喩」で主張していたことと同様のことなのである。つまり、睡眠時に見る夢が、現実の影のようなものであるのと同じく、この現実(と我々が考えている生存状態)も実は“真の現実”の影にすぎないのであり、しかも“本当の目覚め(解脱)”によって始めてその真理を知るに至るのだと。この「斉物論篇」冒頭の“忘我(エクスタシー)”の描写をみても、荘子が神秘主義の哲学者であることはまず以て間違いないように思われる。ゆえに荘子を理解する上で参考にして良いのはプラトンの形而上学や仏教の唯識教学、およびシャンカラ以降のヴェーダーンタ哲学などであり、決して相対主義のニーチェやポストモダニズム風の思潮等ではない。もちろん実存主義でもない。しかしながら、荘子自身はプラトンや世親やシャンカラから学んだわけでは当然ない。だが、彼が何に学んだかはおおよその予想がつく。それは「この世界を超越した真の世界(この現実以上に現実的な世界)が存在する」という思想が、古今東西の臨死体験者が共通して持っている普遍的な思考傾向だからである(このような考えはルサンチマンを抱いた弱者の思想ではなく、臨死体験者や神秘体験者の実体験に基づく思想なのである)。
こちら側よりはるかに“現実味”が強いのだ。〔中略〕
ここで話しているのは、臨死体験の報告に取りあげられる“超現実”の概念である。退院した私が当時は神経科学を学ぶ大学生だった息子のエベン四世に、「あれが現実だったとすれば、現実以上に現実そのものだった」と話したようなことだ。〔中略〕
のちに臨死体験について書かれたものを端から読んでいった。その結果、臨死体験者の過半数が、向こう側の世界はこちらよりはるかに現実感がともなうところだったと語っていることがわかり、おおいに驚かされることになった。
(エベン・アレグザンダー著『マップ・オブ・ヘヴン』 P128,129)
プラトンもまた人工的に臨死体験を引き起こすことを目的としたエレウシスの密儀等に参入しているし、その著作には臨死体験や死後に関する話題がよく出てくる。(プラトンが秘儀参入者であることはかなり有名な話だし、第一『パイドロス』を読めば明らかだろう)
ところでこれは当り前の話だが、『荘子』を読み解くには古代人の感覚が必要不可欠なのである。つまり、形而上学アレルギーの唯物論者の感覚では、荘子を理解することはほとんど不可能なのだ。古代世界では現代よりもはるかに臨死体験が重視されており、人工的に臨死体験を引き起こすための秘儀(エリート層だけが参入を許される絶対に口外無用の秘密の儀式)が世界各地で実践されていた、ということを念頭に置いたその上で、我々は『荘子』という書物を読み解かなければならない。
死を憎むことが、幼いころに故郷を離れて帰ることを忘れた者と同じで〔あるかも知れない、そうで〕ないとは、わしには決められない。〔中略〕すでに死んだ人々も、その生きていたときに生を求めたことを後悔してい〔るかも知れない、そうで〕ないとは、わしには決められない。
(金谷 P82)
死の世界に行ったものも、行ってみれば案外に楽しいので、なぜ死ぬ前にあれほど生きることばかり願っていたのだろう、と後悔しないとはかぎるまい
(森 P196)
白川--〔前略〕荘子が初めに出て、老子というのは実は後なんです。
梅原--普通逆に考えられますけど。
白川--〔前略〕荘周の学派は、どちらかというと儒教とやや近いんですけれども、うんと高級の神官のクラスですね。この連中はお祭を支配する司祭者ですから、古い伝統をよく知っている。神話なんかもよく知っている。そして古い氏族の伝統なんかもよく知っている。そういうことを知っておらんと祭は出来ませんからね。
だから同じ祭儀を行うにしてもね、儒家はそれの下層の方、荘周の一派はそれのうんと上層のね、神官の知識階級ですね。だから彼らのものの考え方がかなり哲学的であるし、〔中略〕そういう非常に思弁的なグループなんですね。そして彼らが儒家の思想を批判するのです。儒家の考え方というものはね、儀式とかそういう「もの」に即して具体的であり、現実的であるけれどもね、超越的な、絶対的なという風な、形而上学的なものがないという。〔中略〕
超越的な立場というものを持たなければ、思想というものは完成されないという、そういう立場からね、〔中略〕批判しておるのです。
(平凡社刊『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』 P129)
ここで「自分は唯物論者なので、“あらゆる物は存在していない”と言ったり“この世界は夢(今風に言えばバーチャルリアリティー)だ”などとわけのわからない事ばかり言う荘子のことはぜんぜん理解できそうにない」とお嘆きの方のために、荘子とは直接関係がないかのように思われる著作物から引用することをお許し願いたい。
まずはシモン・マリンという物理学者の著書から引用させて頂く。
量子状態は長くは続かない。というよりも、それは一瞬の閃光として存在するのである。“基本量子状態は突然出現し、ほとんど出現すると同時に消滅する”。〔中略〕物理世界は無数の量子素事象から成り立っており、それは存在の閃光のように明滅し
(シモン・マリン著『隠れたがる自然―量子物理学と実在』 P235,236)
「じゃあ物質って何なんだ。私が聞いているのは定義じゃないよ。〔中略〕『物質』という言葉が何を表しているのか、きみなりに説明してほしいんだ」
「そうだね。実際われわれは懸命にそれを理解しようとして、その結果、今やわれわれはそれ(物質)がまったく存在しないものだとわかったんだ」
(同上 P278)
大方の科学者は現代物理学が発見した“刹那に明滅する量子素事象としての世界”という科学的に証明済みのれっきとした現実を突きつけられた結果、「わけがわからないよ」と顔をしかめて一切の解釈を止めた。しかし一部の思索する物理学者はシモン・マリンのように、こんな有り様では「物質は存在していない」と断言する他ないと観念した。ボーアやハイゼンベルクやシュレーディンガーやパウリといった量子物理学の創始者たちは全員重度の神秘主義哲学オタクもしくは神秘主義の哲学者そのものになった。
次に著名なサイエンス・ライターであるチャールズ・サイフェの著作と物理学者ブライアン・グリーンの著作と日経サイエンスから引用させて頂く。
ホログラムでは物体について三次元情報をまるごと二次元のフィルムに保存できる。
どうやらブラックホールはホログラムと同じく、三次元分の情報--事象の地平を越えた(三次元の)物質すべて--を二次元の媒体--ブラックホールの事象の地平面--に記録しているように思われる。一九九三年にオランダの物理学者ヘラルデュス・トホーフトが(この人は一九九九年に別の仕事でノーベル賞を与えられることになる)、ホログラフィー原理と呼ばれるものを唱えた。かなりしっかりした理論上の根拠をもってブラックホールの物理を宇宙全体に広げるものだ。この原理が正しければ、ある意味で私たち自身もホログラムかもしれない。自分は三次元の存在であると錯覚して悩んでいる、二次元の生物にすぎないのかもしれないのだ。
(チャールズ・サイフェ著『宇宙を復号(デコード)する―量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』 P305,306)
マルダセナの結果は、特定の仮説のもとでホログラフィック原理をはっきりした形にし、そうするなかで〈ホログラフィック多宇宙〉を初めて数学的に例証した。〔中略〕
そのような研究結果が、それまでホログラフィック原理に疑いの目を向けていた大勢の物理学者を口説き落としたおかげで、そのあと続々と研究が行われ、何千という論文が書かれ、かなり深い理解が生まれた。
(ブライアン・グリーン著『隠れていた宇宙(下)』 P170)
ホログラフィーの概念は、数多くの厳しい数学的検証を受け、それを無傷で切り抜けてきたため、自然法則の深い根源を探し求めている物理学者のあいだで主流になりつつある。
(同上 P180)
〈ホログラフィック多宇宙〉は、実証済みの理論--一般相対性理論と量子力学--の検討から現われたものであり、ひも理論による最強の理論的裏付けがある。ホログラフィーにもとづく計算はすでに、重イオン衝突型加速器の実験結果と暫定的に合致していて、あらゆる兆候が、そのような実験とのつながりは将来的にもっと確実になることを示している。
(同上 P263,264)
プリンストン大学の物理学者でトホーフトの元学生だったフェアリンデは言う。
「時空は0と1の集まりから生まれてくる」。
物理学者は、2次元面上の情報がこの世界のすべての情報を担うというホログラフィック原理がおおむね正しいと思っている。しかし、すべてが解決したわけではない。
この世界の情報がどのようにコード化されているのか、自然界がどのように0と1のビットを処理しているのか、どのような処理の結果この世界が現れるのかといった問題は謎のままだ。
宇宙はコンピューターのようなもので、その内部の情報が、私たちが物理的実体と考えているものを作り出しているのではないかと物理学者は考えている。
(別冊日経サイエンス『実在とは何か?』 P106)
このような科学関連書籍からの引用を長々と行った理由は、現代物理学が荘子の哲学を裏付けているなどという馬鹿げた主張をするためではない。
知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。〔分からないところを強いて分かろうとし、また分かったとするのは、真の知識ではない。〕
(金谷 P73)
「先生は万人が一致して正しいと認めるような事実を、ご存じでしょうか」
「わしは、そんなことは知らないよ」
「それでは先生は、自分が知らないということを、ご存じでしょうか」
「それも知らないね」
「それではいっさいの物は、何もわからないということになるのでしょうか」
〔中略〕
「それも、わしにはわからんよ。
(森 P192)
というように、荘子の哲学の主眼の一つはまさしく「無知の知の徹底」なのである。
荘子は形而下的な現実世界(仏教的に言えば分別心そのものの現われである現象世界)を超克するために、徹底的に無知すなわち無分別であろうとした。荘子は衆生のあらゆる主義主張や嗜好および性向を理性(ロゴス)によって吟味していくことで--当のロゴス(言語)そのものさえも吟味の対象にして--結局のところすべては臆見(ドクサ)にすぎないということを見事に論証してみせた。
荘子に接近できるか否かは、読み手が「私は知らない」という知的ポジションに立てるかどうか、それ(彼の知的態度)と心を同じくできるかどうかにかかっている。例えば、この現実世界は確かに実在しているとか、死んだら無だというような「確信」を持っている人、つまり無意識に「私は知っている」と思っている人は、荘子について行けない。最悪、荘子のことを詭弁家か何かだと誤解してしまうかもしれない。逆に、この世界は事象の地平面の2進数列が読み込まれた結果投影されているホログラムに違いないというような確信を抱いている人もまた、荘子の態度に不満を持つかもしれない。このような人も「私は知っている」と無意識に思う人だからである。ゆえに「私は知らない」というところで踏み止まっていられる人、あるいはその「無知の知」の状態を最も心地よく感じられるような人たちだけが、斉物論篇を何の違和感もなく読むことができるのである。
私たちは無意識に「目の前の物体が実在している(ことを知っている)」と思っているが、量子力学以降の物理学をいくらか学べば、「目の前の物体が実在しているのかどうか私は知らないよ」と考える方が知的により誠実であるということが理解できるはずなのである(つまり荘子に接近できるのだ)。
古代においても現代においても、人は学べば学ぶほど「私は知らない」という地点に収斂して行かざるを得なくなる。荘子然り、ソクラテス然り、人は知り得ないものだから「決して何事も誓ってはならない」し(他人を理解したつもりで人間の尺度に基づく勝手な判断を下して)「裁いてはならない」と言ったイエス・キリスト然り、あらゆることを学ばなければならないがそうして得られた如何なる知識にも染まってはならない(如何なる知識にも汚されてはならない)と説いた釈迦然りである(余談だがこの四人の思想には共通する部分がかなりある。純粋に思想的な観点で見れば四大聖人の一人に数えられるべき人物は孔子ではなく荘子であろうと思われる)。
中国の古典についての知識だけでなく、形而上学を中心とした哲学全般や宗教人類学等についての学識が充分でなければ、荘子が実際には何を言いたかったのか分からなくなりかねないし、「斉物論篇」を思想的に一貫した一まとまりの著作であると見なせなくなってしまう恐れもある。
金谷訳をお勧めする私としては、まず斉物論篇の序章における金谷の致命的誤訳を指摘しておかなければならない。この誤解釈のおかげで、比較的優秀な金谷訳の斉物論篇は、残念なことに、思想的に一貫性を欠くものになってしまっているからだ。
子游がいった、「地の簫(ふえ)はつまりもろもろの穴がそれですね、人の簫はつまり竹管がそれですね。どうか天の簫のことをお教え下さい。」子キは答えた、「〔地の簫も人の簫も、〕そもそも吹きかたはさまざまで同じではないが、〔それらは、すべての穴や竹管〕みなそれぞれに自分で音を出しているのだ。すべてそれ自身で音が選ばれている。音を出させる者はいったい何者であろう〔そんな者はありはしない〕。
(金谷治訳『荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫)』 P44,45)
金谷はここで「音を出させる者(万物の主体である真宰)」など存在しないと断言してしまっている。しかしそれでは、その後の
何がそのようなさまざまな状態を起こさせるのかは分からない。真宰--真の主宰者--がいるようでもあるが、その形跡は得られない。作用(はたらき)の結果は確かであるが、そうさせたものの形は見えない。実質はあるが姿形はないのである。〔中略〕
やはり真実の主人が存在するであろう。
(金谷 P49)
という荘子の意見と真逆の主張が直前になされたことになってしまう。これでは読者は混乱してしまう。事実、金谷訳を参考にして荘子を論じた蜂屋邦夫は、上記の箇所について「ここは、じつは文意がなかなか取りがたく(『荘子=超俗の境へ-講談社選書メチエ』 P112)」と露骨に及び腰になっていて、自身の斉物論篇の解説によほど自信がないのか、その章は読み飛ばしてもよいとまで言っている。天籟の箇所を誤解釈してしまうから、読み手はその後の荘子の議論に付いていけなくなるのだ。
また天籟の箇所を、方向性は間違っていないが微妙に誤訳している阿部吉雄も「雲をつかむようで分らない。〔中略〕巻を閉じた後、いつまでも考えさせられる文章である。(阿部吉雄訳『荘子(中国古典新書)』 P77)」と事実上白旗を上げている。しかし
小さい木の茎と大きな柱、癩病患者と美人の西施とを対照して示すと、とても奇怪ないぶかしい対照ではあるが、〔それは現象にとらわれているからのことで、〕真実の道の立場からは〔その区別は消えて〕ひとしく一つのものである。
(金谷 P59,60)
というような「形而上的な真実在である『道(一者)』は絶対無差別」だとする斉物論篇全体を貫いている荘子の力強い主張を鑑みれば文意は明白である。
「実質はあるが姿形はない〔中略〕真実の主人(金谷 P49)」とは「形而上的な(形を持たない)真の実在」を意味している。
【夫吹萬不同、而使其自己也、咸其自取、怒者其誰邪】は、金谷のように音を出させる者など存在しないと解釈するのではなく、【千差万別の音が出てはいるが〔吹かれ方は千差万別であるが〕、その音の区別(差別)は諸々の穴や竹管の形状、つまり穴や竹管の形状に例えられた個別者自身によるものだ。では音を出させるものはいったい何者であろうか?〔差別する者(吹かれ方を決するもの)は当の個別者たち自身であるから、その何者か(非個別的な普遍的実在すなわち一者=道である吹くもの)は差別をしていないのである〕】という風に解釈すべきなのである。そうすれば前後の議論の矛盾は解消され、荘子が一貫して「万物斉同の理」について述べていることが明確になる。
ただ金谷の訳はこうした一部の誤解釈を除けば、できる限り原意から逸脱しないように心掛けられていて、翻訳上の飛躍は特に少ない。例えば、
生涯をあくせくとすごしてそれだけの効果もあらわれず、ぐったりと疲労しきって身を寄せる所も分からない。哀れまないでおれようか。世間でそれを死んではいないと言ったところで、何の役にたとう。〔すでに死んでいるのと同じである。〕その肉体がうつろい衰えて心もそれと一しょに萎んでしまったのである。
(金谷 P51)
と真っ当に翻訳している部分を、池田知久は
身を終えるまでこつこつと勤めながら、ついに成功を見ることもない。ぐったりと働き疲れて、行き着く先も分からない。哀しまないでいられようか。この身体を不死だと主張して、それに真宰を充てる思想家もいるが、何の益もない議論である。この思想家の身体が死ねば、彼の精神も一緒に死に絶えるのだ。
(池田知久訳『荘子 上 全訳注 (講談社学術文庫)』 P128)
という風に、釈迦やウィトゲンシュタイン同様「語り得ぬこと」についてよく自覚している沈着冷静で稀有な思想家である荘子を、死後の生存を断定的に否定する(語り得ないことについて断定的に語る)凡庸な言論者にまで貶めてしまっている。森三樹三郎もほとんど同じ誤訳をしている。さらに池田は、
あれこれの人間の精神にまだ形成されていない、普遍的精神を真宰としてみると、それが行う是非の判断は、例えば、(恵施の有名な)『今日、越(南方の国名)に旅立って昨日着いた。』といった、時空を無視した詭辯となるだろう。ありもしない普遍的精神などを、あると見なしたからだ。
(池田 P128,129)
というように、荘子が原文で一言も述べていない「普遍的精神」なるものを想定して、彼の現代語訳に登場する荘子にこれを否定させている。金谷はこの箇所もまったく普通に(つまり原文に対して忠実に)翻訳している。
心に成見を持たなくても善し悪しの分別が起こるなどというのは、今日南の越の国に旅立って昨日到着したという〔詭弁の〕ようなもので、これはありえないことをあるとすることである。
(金谷 P52)
池田は自身の深い学識に基づいて独自の解釈を施したのであろうが、そのような見解は注釈部分でのみ言及すべきことであり、それを『荘子』の現代語訳として提示するのは明らかにルール違反である。現代の知識人は形而上学を好まない。だが古代の哲学者の多くはそれとは真逆であり、荘子はそのような古代哲学者の中でも最も過激な形而上学者である。荘子は徹底しており、プラトンのように形而上の世界を志向するだけでなく、形而下の世界そのものを否定してさえいる。当該の部分を三人の訳者の現代語訳で見てみよう。
昔の人は、その英智に最高のゆきついた境地があった。そのゆきついたところとはどこか。もともと物などはないと考える〔無の〕立場である。至高であり完全であって、それ以上のことはない。
(金谷 P64)
上古の人には、その知恵が、それぞれに到達するところがあった。その到達したところはとは、どのようなものであったか。
最も高いものは「はじめからいっさいの物は存在しない」とするのであって、これは究極まで至りつき、すべてを尽くしたもので、もはやつけ加えるべき何ものもない。
(森三樹三郎訳『世界の名著 4 老子 荘子 (中公バックス)』 P183)
上古の人は、知がある究境に到達していた。その到達していた境地とは、根源において、物は存在しないと考える境地である。それは究境に達しており、あらん限りを尽くしていて、最早何も追加することのできない、最高ランクの知である。
(池田 P161)
物質は存在しない、つまり、感性界(目に見えて触れることもできるこの現実世界)が本当は存在していないという思想は、仏教では唯識派、ヴェーダンタではシャンカラに至ってはじめて完全な形で提示された非常に大胆で先進的な哲学説であり、荘子の時代(紀元前)にあって形而上学の到達点であるこの思想が現われていることは哲学史的、宗教人類学的に言って普通に驚異的なことなのである。荘子がずっと後の唯識教学やシャンカラのヴェーダーンタ哲学とほぼ同じ意味合いにおいて、この思想を語っていたことは、次の引用箇所をみればかなり明らかであると思われる。
夢を見ているうちは、それが夢であることがわからず、夢のなかで夢占いをすることさえあるほどで、目がさめてはじめて夢であったことに気がつくありさまである。だから真のめざめがあってこそ、はじめてこの人生が大きな夢であることがわかるのだ。〔中略〕
こういっている私も、実はお前といっしょに夢を見ているのだよ。
(森 P197,198)
夢を見ているときには、それが夢であることは分からず、〔中略〕目が覚めてから始めてそれが夢であったことが分かるのである。〔人生も同じことだ。〕本当の目覚めがあってこそ、始めてこの人生が大きな一場の夢であることが分かるのだ。〔中略〕孔丘もお前もみな夢を見ているのだ。そして、わしがお前に夢の話をしているのも、また夢だ。
(金谷 P82,83)
夢を見ている最中には、夢であることに気づかず、時には夢の中でさらに夢占いをすることもある。目が覚めて始めて夢であることが分かるのである。とすれば、いつの日か大いなる目覚めを経験して、始めて今までのが大いなる夢でしかなかったと分かるはずだ。〔中略〕孔丘と君の最前のやり取り、どちらも夢である。私が君に夢だと言うのも、また夢だ。そして、一切を夢なりとするこの言葉は、名づけて摩訶不思議と言う。〔中略〕まず誰にも解釈できない、本当の真理なのだ。
(池田 P201)
荘子は何かの比喩ではなく本気でそう考えていたのであり、ここで彼が言わんとしていた事柄は、プラトンがあの有名な「洞窟の比喩」で主張していたことと同様のことなのである。つまり、睡眠時に見る夢が、現実の影のようなものであるのと同じく、この現実(と我々が考えている生存状態)も実は“真の現実”の影にすぎないのであり、しかも“本当の目覚め(解脱)”によって始めてその真理を知るに至るのだと。この「斉物論篇」冒頭の“忘我(エクスタシー)”の描写をみても、荘子が神秘主義の哲学者であることはまず以て間違いないように思われる。ゆえに荘子を理解する上で参考にして良いのはプラトンの形而上学や仏教の唯識教学、およびシャンカラ以降のヴェーダーンタ哲学などであり、決して相対主義のニーチェやポストモダニズム風の思潮等ではない。もちろん実存主義でもない。しかしながら、荘子自身はプラトンや世親やシャンカラから学んだわけでは当然ない。だが、彼が何に学んだかはおおよその予想がつく。それは「この世界を超越した真の世界(この現実以上に現実的な世界)が存在する」という思想が、古今東西の臨死体験者が共通して持っている普遍的な思考傾向だからである(このような考えはルサンチマンを抱いた弱者の思想ではなく、臨死体験者や神秘体験者の実体験に基づく思想なのである)。
こちら側よりはるかに“現実味”が強いのだ。〔中略〕
ここで話しているのは、臨死体験の報告に取りあげられる“超現実”の概念である。退院した私が当時は神経科学を学ぶ大学生だった息子のエベン四世に、「あれが現実だったとすれば、現実以上に現実そのものだった」と話したようなことだ。〔中略〕
のちに臨死体験について書かれたものを端から読んでいった。その結果、臨死体験者の過半数が、向こう側の世界はこちらよりはるかに現実感がともなうところだったと語っていることがわかり、おおいに驚かされることになった。
(エベン・アレグザンダー著『マップ・オブ・ヘヴン』 P128,129)
プラトンもまた人工的に臨死体験を引き起こすことを目的としたエレウシスの密儀等に参入しているし、その著作には臨死体験や死後に関する話題がよく出てくる。(プラトンが秘儀参入者であることはかなり有名な話だし、第一『パイドロス』を読めば明らかだろう)
ところでこれは当り前の話だが、『荘子』を読み解くには古代人の感覚が必要不可欠なのである。つまり、形而上学アレルギーの唯物論者の感覚では、荘子を理解することはほとんど不可能なのだ。古代世界では現代よりもはるかに臨死体験が重視されており、人工的に臨死体験を引き起こすための秘儀(エリート層だけが参入を許される絶対に口外無用の秘密の儀式)が世界各地で実践されていた、ということを念頭に置いたその上で、我々は『荘子』という書物を読み解かなければならない。
死を憎むことが、幼いころに故郷を離れて帰ることを忘れた者と同じで〔あるかも知れない、そうで〕ないとは、わしには決められない。〔中略〕すでに死んだ人々も、その生きていたときに生を求めたことを後悔してい〔るかも知れない、そうで〕ないとは、わしには決められない。
(金谷 P82)
死の世界に行ったものも、行ってみれば案外に楽しいので、なぜ死ぬ前にあれほど生きることばかり願っていたのだろう、と後悔しないとはかぎるまい
(森 P196)
白川--〔前略〕荘子が初めに出て、老子というのは実は後なんです。
梅原--普通逆に考えられますけど。
白川--〔前略〕荘周の学派は、どちらかというと儒教とやや近いんですけれども、うんと高級の神官のクラスですね。この連中はお祭を支配する司祭者ですから、古い伝統をよく知っている。神話なんかもよく知っている。そして古い氏族の伝統なんかもよく知っている。そういうことを知っておらんと祭は出来ませんからね。
だから同じ祭儀を行うにしてもね、儒家はそれの下層の方、荘周の一派はそれのうんと上層のね、神官の知識階級ですね。だから彼らのものの考え方がかなり哲学的であるし、〔中略〕そういう非常に思弁的なグループなんですね。そして彼らが儒家の思想を批判するのです。儒家の考え方というものはね、儀式とかそういう「もの」に即して具体的であり、現実的であるけれどもね、超越的な、絶対的なという風な、形而上学的なものがないという。〔中略〕
超越的な立場というものを持たなければ、思想というものは完成されないという、そういう立場からね、〔中略〕批判しておるのです。
(平凡社刊『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』 P129)
ここで「自分は唯物論者なので、“あらゆる物は存在していない”と言ったり“この世界は夢(今風に言えばバーチャルリアリティー)だ”などとわけのわからない事ばかり言う荘子のことはぜんぜん理解できそうにない」とお嘆きの方のために、荘子とは直接関係がないかのように思われる著作物から引用することをお許し願いたい。
まずはシモン・マリンという物理学者の著書から引用させて頂く。
量子状態は長くは続かない。というよりも、それは一瞬の閃光として存在するのである。“基本量子状態は突然出現し、ほとんど出現すると同時に消滅する”。〔中略〕物理世界は無数の量子素事象から成り立っており、それは存在の閃光のように明滅し
(シモン・マリン著『隠れたがる自然―量子物理学と実在』 P235,236)
「じゃあ物質って何なんだ。私が聞いているのは定義じゃないよ。〔中略〕『物質』という言葉が何を表しているのか、きみなりに説明してほしいんだ」
「そうだね。実際われわれは懸命にそれを理解しようとして、その結果、今やわれわれはそれ(物質)がまったく存在しないものだとわかったんだ」
(同上 P278)
大方の科学者は現代物理学が発見した“刹那に明滅する量子素事象としての世界”という科学的に証明済みのれっきとした現実を突きつけられた結果、「わけがわからないよ」と顔をしかめて一切の解釈を止めた。しかし一部の思索する物理学者はシモン・マリンのように、こんな有り様では「物質は存在していない」と断言する他ないと観念した。ボーアやハイゼンベルクやシュレーディンガーやパウリといった量子物理学の創始者たちは全員重度の神秘主義哲学オタクもしくは神秘主義の哲学者そのものになった。
次に著名なサイエンス・ライターであるチャールズ・サイフェの著作と物理学者ブライアン・グリーンの著作と日経サイエンスから引用させて頂く。
ホログラムでは物体について三次元情報をまるごと二次元のフィルムに保存できる。
どうやらブラックホールはホログラムと同じく、三次元分の情報--事象の地平を越えた(三次元の)物質すべて--を二次元の媒体--ブラックホールの事象の地平面--に記録しているように思われる。一九九三年にオランダの物理学者ヘラルデュス・トホーフトが(この人は一九九九年に別の仕事でノーベル賞を与えられることになる)、ホログラフィー原理と呼ばれるものを唱えた。かなりしっかりした理論上の根拠をもってブラックホールの物理を宇宙全体に広げるものだ。この原理が正しければ、ある意味で私たち自身もホログラムかもしれない。自分は三次元の存在であると錯覚して悩んでいる、二次元の生物にすぎないのかもしれないのだ。
(チャールズ・サイフェ著『宇宙を復号(デコード)する―量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』 P305,306)
マルダセナの結果は、特定の仮説のもとでホログラフィック原理をはっきりした形にし、そうするなかで〈ホログラフィック多宇宙〉を初めて数学的に例証した。〔中略〕
そのような研究結果が、それまでホログラフィック原理に疑いの目を向けていた大勢の物理学者を口説き落としたおかげで、そのあと続々と研究が行われ、何千という論文が書かれ、かなり深い理解が生まれた。
(ブライアン・グリーン著『隠れていた宇宙(下)』 P170)
ホログラフィーの概念は、数多くの厳しい数学的検証を受け、それを無傷で切り抜けてきたため、自然法則の深い根源を探し求めている物理学者のあいだで主流になりつつある。
(同上 P180)
〈ホログラフィック多宇宙〉は、実証済みの理論--一般相対性理論と量子力学--の検討から現われたものであり、ひも理論による最強の理論的裏付けがある。ホログラフィーにもとづく計算はすでに、重イオン衝突型加速器の実験結果と暫定的に合致していて、あらゆる兆候が、そのような実験とのつながりは将来的にもっと確実になることを示している。
(同上 P263,264)
プリンストン大学の物理学者でトホーフトの元学生だったフェアリンデは言う。
「時空は0と1の集まりから生まれてくる」。
物理学者は、2次元面上の情報がこの世界のすべての情報を担うというホログラフィック原理がおおむね正しいと思っている。しかし、すべてが解決したわけではない。
この世界の情報がどのようにコード化されているのか、自然界がどのように0と1のビットを処理しているのか、どのような処理の結果この世界が現れるのかといった問題は謎のままだ。
宇宙はコンピューターのようなもので、その内部の情報が、私たちが物理的実体と考えているものを作り出しているのではないかと物理学者は考えている。
(別冊日経サイエンス『実在とは何か?』 P106)
このような科学関連書籍からの引用を長々と行った理由は、現代物理学が荘子の哲学を裏付けているなどという馬鹿げた主張をするためではない。
知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。〔分からないところを強いて分かろうとし、また分かったとするのは、真の知識ではない。〕
(金谷 P73)
「先生は万人が一致して正しいと認めるような事実を、ご存じでしょうか」
「わしは、そんなことは知らないよ」
「それでは先生は、自分が知らないということを、ご存じでしょうか」
「それも知らないね」
「それではいっさいの物は、何もわからないということになるのでしょうか」
〔中略〕
「それも、わしにはわからんよ。
(森 P192)
というように、荘子の哲学の主眼の一つはまさしく「無知の知の徹底」なのである。
荘子は形而下的な現実世界(仏教的に言えば分別心そのものの現われである現象世界)を超克するために、徹底的に無知すなわち無分別であろうとした。荘子は衆生のあらゆる主義主張や嗜好および性向を理性(ロゴス)によって吟味していくことで--当のロゴス(言語)そのものさえも吟味の対象にして--結局のところすべては臆見(ドクサ)にすぎないということを見事に論証してみせた。
荘子に接近できるか否かは、読み手が「私は知らない」という知的ポジションに立てるかどうか、それ(彼の知的態度)と心を同じくできるかどうかにかかっている。例えば、この現実世界は確かに実在しているとか、死んだら無だというような「確信」を持っている人、つまり無意識に「私は知っている」と思っている人は、荘子について行けない。最悪、荘子のことを詭弁家か何かだと誤解してしまうかもしれない。逆に、この世界は事象の地平面の2進数列が読み込まれた結果投影されているホログラムに違いないというような確信を抱いている人もまた、荘子の態度に不満を持つかもしれない。このような人も「私は知っている」と無意識に思う人だからである。ゆえに「私は知らない」というところで踏み止まっていられる人、あるいはその「無知の知」の状態を最も心地よく感じられるような人たちだけが、斉物論篇を何の違和感もなく読むことができるのである。
私たちは無意識に「目の前の物体が実在している(ことを知っている)」と思っているが、量子力学以降の物理学をいくらか学べば、「目の前の物体が実在しているのかどうか私は知らないよ」と考える方が知的により誠実であるということが理解できるはずなのである(つまり荘子に接近できるのだ)。
古代においても現代においても、人は学べば学ぶほど「私は知らない」という地点に収斂して行かざるを得なくなる。荘子然り、ソクラテス然り、人は知り得ないものだから「決して何事も誓ってはならない」し(他人を理解したつもりで人間の尺度に基づく勝手な判断を下して)「裁いてはならない」と言ったイエス・キリスト然り、あらゆることを学ばなければならないがそうして得られた如何なる知識にも染まってはならない(如何なる知識にも汚されてはならない)と説いた釈迦然りである(余談だがこの四人の思想には共通する部分がかなりある。純粋に思想的な観点で見れば四大聖人の一人に数えられるべき人物は孔子ではなく荘子であろうと思われる)。
2022年2月17日に日本でレビュー済み
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金谷先生の翻訳は大変分かりやすく、適切です。いつも老荘思想の理解レベルの高さに感心しながら拝読しております。
一つご質問があります。金谷先生が亡くなられた2006年以後に発行されたものは、どなた様が作成、校正しているのでしょうか?
ご存知の方、ご教示くださいませ。
一つご質問があります。金谷先生が亡くなられた2006年以後に発行されたものは、どなた様が作成、校正しているのでしょうか?
ご存知の方、ご教示くださいませ。
2023年7月17日に日本でレビュー済み
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森 三樹三郎さんの現代訳と読み比べています。どちらも大変参考になります。
2018年4月7日に日本でレビュー済み
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荘子は老子とともに道家思想を伝える古典で、現実社会の差別概念や束縛を棄て、精神の自由や安定を得ることを根底とした書です。全33篇から成りますが、この第一冊内篇は荘子の純粋な思想が最も凝縮されているそうです。寓話が多いので面白く読むことができるのも特徴です。
運命に身をゆだね自然体で生きることが最良だということがよくわかり、読後はありのままの自分で良いんだという楽天的な気持ちにさせてくれます。ストレス社会を打破するためには荘子の教えが最も適してるのではないでしょうか。
運命に身をゆだね自然体で生きることが最良だということがよくわかり、読後はありのままの自分で良いんだという楽天的な気持ちにさせてくれます。ストレス社会を打破するためには荘子の教えが最も適してるのではないでしょうか。
2020年5月16日に日本でレビュー済み
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ページの字数が多く読みにくい