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列子 上 (岩波文庫 青 209-1) 文庫 – 1987/1/29
小林 勝人
(翻訳)
「列子」8篇は「老子」や「荘子」とともに道家思想をつたえる代表的な古典であるが、「杞憂」「朝三暮四」「愚公移山」などよく知られた絶妙な寓言・寓話が多く、滋味ゆたかな説話文学の一大宝庫ともなっている。原文と訓読分に細緻な校・注を付し、さらに分かりやすい現代語訳を加えた。
- 本の長さ361ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1987/1/29
- ISBN-104003320913
- ISBN-13978-4003320914
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1987/1/29)
- 発売日 : 1987/1/29
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 361ページ
- ISBN-10 : 4003320913
- ISBN-13 : 978-4003320914
- Amazon 売れ筋ランキング: - 471,527位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,933位岩波文庫
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年2月15日に日本でレビュー済み
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老荘列の列子です。簡単かつ大胆に言えば、老子は大ぼら、荘子は中ぼら、列子は小ぼら。老子は大きく崇高で近づき難いが近づきたい気持ちになります。荘子は修辞の頂を極めていて夢の世界に入れます。列子は分かりやすく述べているので受け入れやすいと思います。漢文と読み下し文と現代日本語訳と3つ並んでいて適切な注釈がついています。でも好き嫌いで言えば老子の 道可道非常道名可名非常名 に尽きると思います。
2009年7月30日に日本でレビュー済み
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『列子』は老子・荘子とならんで道家の思想をわかりやすく伝えてくれます。
本書は校・注が全体の半分近くを占めていて、詳しい知識を知る事ができて、退屈しません。
夏休みの、暑い午後を静かに、『列子』を読んで過すと、心は生き生きしてきますよ。
本書は校・注が全体の半分近くを占めていて、詳しい知識を知る事ができて、退屈しません。
夏休みの、暑い午後を静かに、『列子』を読んで過すと、心は生き生きしてきますよ。
2012年10月10日に日本でレビュー済み
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列子は老子、荘子と並ぶ道家思想の三本柱のうちのひとりですが、一番マイナーです。
「無為」「道」など道家思想を代表するキーワードがいくつかあり、列子のそれは「虚」になります。
読めば読むほどこの列子の「虚」と後世の中国で生まれた禅思想の「無」との共通性を感じさせられました。
読み物としても面白い。
「無為」「道」など道家思想を代表するキーワードがいくつかあり、列子のそれは「虚」になります。
読めば読むほどこの列子の「虚」と後世の中国で生まれた禅思想の「無」との共通性を感じさせられました。
読み物としても面白い。
2012年5月14日に日本でレビュー済み
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加藤徹先生の「漢文力」を読んで、どうしても本書をと思って調べると絶版でした。やむを得ず古書を購入し、とりあえず訳文のみ読みました。金谷治先生の文章(孟子・荘子・老子・荀子)も練れていて名文なのですが、小林先生のこの訳も素晴らしく読みやすかったです。この本が一般人(?)に普通に読まれることを願うほうが無理なのですが、せめて細々とでも絶版にせずに書店の棚に並んでいてもらいたいものです。といっても岩波文庫自体が大きな書店じゃないと見当たらないので何とも仕様のない世の中になってきたものです。金谷先生の岩波新書版「孟子」のように無理を承知で復刻を祈ってやみません。若者言葉も英語もいいのですが、韓国のように漢字文化を捨てていくと、わが国で滔々と続き本家中国を圧倒するまでに育ってきた漢文脈の伝統文化がどんどん廃れていくことになります。エッセイストの故山本夏彦さんも草葉の陰で笑っている(?)ことでしょう。
2008年10月29日に日本でレビュー済み
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『列子』は成立の経緯やその時期に不明な点が多く、扱いの難しい書物とされる。
本書は単なる訳にとどまらず、頁数にして約半分を校注と解題が占め、『列子』研究の一端をうかがうことができる。
小林氏の視点は、何でも儒家に引き込むような通俗的なものではなく、老荘についての理解が背景にあるため、
本書も真摯な精読にたえるものとなっているように思う。
本書は単なる訳にとどまらず、頁数にして約半分を校注と解題が占め、『列子』研究の一端をうかがうことができる。
小林氏の視点は、何でも儒家に引き込むような通俗的なものではなく、老荘についての理解が背景にあるため、
本書も真摯な精読にたえるものとなっているように思う。
2014年10月6日に日本でレビュー済み
儒家は孔子、孟子、荀子の3人に代表されるが、道家は老子、荘子と本書の列子に代表される(p328)。列子は荘子と同時期で、全く同じ話も含まれているので、老子と荘子を読んで、更なる老荘思想の展開を知りたいという人にお勧め。本書が、複数の“列子“の原文を比較検討し、最高のテキストを作るべく訳者の小林勝人が努力した旨は、解説に書かれており信頼がおける。上巻には、全8巻のうち、第4巻の仲尼篇までの半分が含まれている。204ページまでが、漢文、書き下し文、現代語訳、291ページまでが校(漢文の疑問点などの解説で専門家向け)と注(一般向けの用語解説)と約60ページの解説(列子の補作説や虚の思想など)。登場人物は、孔子とその弟子(孔子が老荘思想を理解した人物として登場することが多い)、列子本人など。列子は、道を体得した人は木偶(でく)の坊(欺魄、泥人形)のように一見見えると解説する。それは、道を悟った人は無言だが、無言の沈黙を言論とするのもまた一種の言論(無言の言)である。ところが、真に道を体得した人は、かかる言・無言とかの区別をすべて相対的なものと見て、それらを超越している(p177)。この話は、宮沢賢治が雨ニモマケズの”デクノボウ”のようになりたいと叙述していることなどからも興味深い。同様の話は他所にもみられ、そこでは、聖人はその徳は外には現れず、一見愚者のようである。一方、俗人は心の中の誠実さがこだわりがあって結集したままゆるんでとけず、あとを残さぬというわけにはいかない。だからしぜんと人の気に入るような垢抜けした挙動が外観に現れて光彩を発する(p256)としている(つまり、他者からみて、一見立派に見えるようでは、まだまだということ)。ここにおいて聖人は、この世における是非(よしあし)とか利害(そんとく)とかいうような相対的な価値判断や一切の差別相から脱却し超越したところの絶対の世界(=道)に到達し、自分の内と外を区別する意識もなくなり、風の吹くままに流れて、遂には風が我が身に乗っているのか、我が風に乗っているのかすらも全く意識しなくなってしまう”虚心の境地”に達して、真理に到達する(風に乗ることも自由自在になった御風説話の誕生p329)。他に、栄啓期の三楽 (p40), 杞憂(p51)、朝三暮四(p121)、木鶏(p123)など有名な逸話の他、以下のような金言も多数。
死人を言って帰人となすときは、即ち生人は行人(こうじん=旅人)たり。p46
人間にはこれこそ自分のものだといえるものなど、どうしてございしょうや。p56
天地と万物とは一体不離のものなのだ。それを承知していながらこれを自分の所有にしようとするのは、とんだ考え違いだ。p60
去来(有為転変)の我にあらざるを知る:この世の有為転変が自分自身と本質的には何の関係もないことを悟る。p164
外に遊び歩く人間は、満足を外界の事物に求めるのに対して、自分自身の内を見つめる人間は、満足を自分自身の上に求めるのである。p182
死人を言って帰人となすときは、即ち生人は行人(こうじん=旅人)たり。p46
人間にはこれこそ自分のものだといえるものなど、どうしてございしょうや。p56
天地と万物とは一体不離のものなのだ。それを承知していながらこれを自分の所有にしようとするのは、とんだ考え違いだ。p60
去来(有為転変)の我にあらざるを知る:この世の有為転変が自分自身と本質的には何の関係もないことを悟る。p164
外に遊び歩く人間は、満足を外界の事物に求めるのに対して、自分自身の内を見つめる人間は、満足を自分自身の上に求めるのである。p182
2007年7月2日に日本でレビュー済み
『列子』を御存知の人はあまりいないかも知れない。しかしこれも立派な中国古典の一つで、老荘思想の三本の柱の一つである。もちろん残りの二つは『老子』と『荘子』である。本書の思想史的価値が、本書冒頭の天瑞篇や黄帝篇にあるのは分るが、単に中国古典を楽しみたい一般読者としては、それ以外の篇の方が面白い。
本書は道教や老荘思想の聖典の一つであるが、内容はあまり感心しないものが多い。ここでいう「感心」は道徳的な意味である。本書は楽しい逸話がいっぱいなのである。「君の祖先の墓はここだよ」などとわざとウソを言ってみて、参拝者が泣くと、「実はウソなんだ。ホントはあっち」などと笑ってやる。もちろん参拝者は白けて笑えない……などという、おもしろ話が満載である。
たまにはこういう気楽な古典も悪くないと思う人は是非どうぞ。ただしその場合は、冒頭の二篇は飛ばすこと。とんでもないことになるから。
本書は充分読みやすいが、あえて他の訳本を選ぶなら、福永光司氏のものが東洋文庫から出ている。こちらは現代語訳だけである。
本書は道教や老荘思想の聖典の一つであるが、内容はあまり感心しないものが多い。ここでいう「感心」は道徳的な意味である。本書は楽しい逸話がいっぱいなのである。「君の祖先の墓はここだよ」などとわざとウソを言ってみて、参拝者が泣くと、「実はウソなんだ。ホントはあっち」などと笑ってやる。もちろん参拝者は白けて笑えない……などという、おもしろ話が満載である。
たまにはこういう気楽な古典も悪くないと思う人は是非どうぞ。ただしその場合は、冒頭の二篇は飛ばすこと。とんでもないことになるから。
本書は充分読みやすいが、あえて他の訳本を選ぶなら、福永光司氏のものが東洋文庫から出ている。こちらは現代語訳だけである。